院長紹介・ごあいさつ|溝の口から徒歩5分の歯医者、佐和歯科クリニックは虫歯治療、歯周病予防、歯並び予防に力を入れています。

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院長紹介・ごあいさつ

経歴

佐和歯科クリニック 院長 佐和 義夫

【経歴】
鹿児島大学歯学部 平成2年卒業
鹿児島大学 同窓会関東支部支部長
【所属学会】
日本口腔外科学会会員
日本矯正歯科学会会員
日本成人矯正歯科学会会員
日本口腔筋機能療法学会(MFT学会)会員
日本歯周病学会会員
日本小児歯科学会会員
日本歯科審美学会会員
日本口腔インプラント学会会員
日吉歯科診療所オーラルフィジシャン
MID-Gエリアリーダー

「治療するだけ」ではなく「一番良よい方法を一緒に見つける」
歯科医院を目指して

こんにちは。アイアイ会佐和歯科クリニック・院長の佐和義夫です。

当院にはじめていらっしゃった方は、「アイアイ会佐和歯科って、どんなところなのかなあ?」「先生やスタッフさんは、どんな人なのかなあ?」と、不安な気持ちをいっぱいお持ちだと思います。
また、来院された事がある方でも、「治療のことで、こんなことも聞いてみたいな?」など、やはりさまざまなご不安があるかもしれません。少しでも、安心してご来院していただくためにこのホームページを作りました。

現代のクリニックは「治療するだけの所」ではありません。相談し合い、一番よい方法を、一緒に見つける所です。お話だけで、安心してお帰りになられる方もたくさんいらっしゃいますね。「一番よい人生をすごしていただくためのお手伝い」をさせて頂きたい!私たちは、いつもそう願っています!

誕生~中学・高校時代

私は、公立小学校の教員の父のもと、姉1人兄1人という3人兄弟の末っ子として、京都市中京区で生まれました。祖父は二人とも東京生まれ東京育ち、しかも父方は浅草、母方は神田という、いわゆるちゃきちゃきの江戸っ子で、さらに、父方の祖母は大阪生まれのコテコテの浪速っ子、母方の祖母は岡山出身の生粋の岡山っ子、その子供である私の両親は生まれも育ちも京都で、京都しか住んだことがないという、なにやら不思議な生い立ちでした。
地元の幼稚園・小学校に通い、京都の生活にどっぷりの子供時代を過ごしました。
母方の祖父は「長唄三味線のお師匠さん」で、遊びにいくと家にはいつも祖父やお弟子さんの三味線の音がしていて、今でも三味線の音には何ともいえない懐かしさを感じます。

祖父は、言葉は江戸弁で、遊びに行くと「よっちゃんは、うなぎは好きかい?」とか言って、大好きな「うなぎ」をよくご馳走になりました。花札とかも教えてくれる、とても優しく楽しい祖父でした。
父方の祖父は、「かめや」という名前の、小さいが結構繁盛しているレストランを経営していました。叔父や叔母もほとんどが飲食店や商売の経営者でした。私の近所の友達たちも、ほとんどがなにがしかの商売をしている家が多く、父が公務員である我が家はある意味異質な存在だったと思います。
家から歩いてすぐの所に、「鴨川」という川幅が50m位の川があり、子供時代そこでよく泳いだり、魚を捕ったりして遊んだことを覚えています。

【中学受験】京都から大阪へ。はじめての地にカルチャーショック

そんな童話のような子供時代が過ぎ、小学5年生の途中から学習塾に通うことになり、バスに乗ってひとり不安な気持ちで初めて塾に行った時、知らない教室、知らない友達のいる最初の授業は算数のテストでした。算数の問題が中々難しく、結果が返ってきたら何と「0点」でした。
その後も案の定、地元京都の中学受験に失敗した私は、その後、衝撃の中学時代を過ごすことになります。大阪の私立中学への進学です。
「そんな大げさな!」と思われるかもしれませんが、幼馴染の友達すべてと別れ、たったひとりで知らない街の知らない学校に入った時の心細さは今でも覚えています。それも、「大阪」です。街並みも違う、微妙に言葉や文化も違う「大阪」は、12歳の私にとっては衝撃でした。隣りに、こんなにも大きな街があるとは、夢にも思っていなかったのです。そして、大阪の「スピード」「勢い」「笑い」「パワー」「人情」。すべてが高テンションで、最初の頃はとにかく付いて行けず、早く京都に帰りたくてしかたありませんでした。

【中学時代】やがて友達もでき、山歩きや楽器に夢中で・・・

徐々に新しい街にも慣れてくると、大阪の中学校には大阪各地はもちろん、神戸や堺、奈良、滋賀など、様々なところから友人達が通ってきていたのに気付きました。それでよく、それぞれのお国自慢合戦をしたもりして、関西各所の特徴やいい所を知るきっかけになりました。
部活はワンダーフォーゲル部(山岳部)に入りました。小学生の時から、私は山が好きで、3歳上の兄や父と京都の山歩きはよくしていましたが、中学からは、大阪のポンポン山や神戸の六甲山に頻繁に登ることになりました。

中学2年からは、ギターやバンジョーなど楽器に夢中になって、毎日必死で練習していました。中高一貫校だったので、高校受験を経験することもなく、気が付いたら高校生になっていました。「そろそろ大学受験なども考えないといけないな」などと思いはじめ、全国大学受験模擬テストというのを初めて受けました。数学の問題が中々難しく、結果が返ってきたら何と「0点」・・・。当然ながら0点なので数学は全国数万人中最下位でした。

大きな影響を与えた大学受験

高校受験を経験していないので、中学のおさらいもやっていなく、山歩きや楽器ばかりやっていて、何にも勉強ができていないことに、ハッと気が付いたのですが、時すでに遅し。現役大学受験の時にはとても、「行きたいところ」と「行けそうなところ」のギャップが大きく、あきらめモードでしたがどこか受験しないといけない、そこで悩んだ結果、名古屋大学工学部原子核学科を受験しました。
今でもはっきり覚えていますが、この受験がまた自分に大きな影響を与えました。
受験会場は名古屋の地下鉄東山線「本山」駅というところで、私は「池下」駅というところに宿をとっていました。受験も終わって京都へ帰る日の夕刻、どうせ落ちるに決まっているし、名古屋の街でも見物して帰ろう、と思って地下鉄「今池駅」で降りました。なぜか、私は名古屋の中心地は「今池駅」と「名古屋駅」だと思っていたのです。

受験の帰り道。道草していてであった洗練された大地下街

今池を歩き周って、もう帰ろうと思って東山線に乗って名古屋駅に向かう途中、「栄駅」というところで地下鉄が交わっているので、ここも今池のような繁華街なのかな、ついでに見ておこうと思って、栄で降りて地上に出た瞬間、目の前のテレビ塔と中日ビル・セントラルパーク等の都会の景色に驚きました。
そして、大阪梅田をしのぐほど広大で洗練された大地下街。本当に驚きました。
京都のほんの少し東に、こんなにも大きな街があるとは、夢にも思っていなかったのです。
自分は日本のことを何も知らないと思いました。

予備校時代

予定通りというか、浪人することになって、予備校を受験してなんとか京都の「近畿予備校」という予備校に入学できました。
この時のうれしさは、今でもはっきり覚えています。「やっと京都の学校に通える!」(予備校ですが、笑)
私にとっては、小学卒業以来、久しぶりの京都での学園生活です。京都の友人達と地元の学校に通いながら過ごせた、最高の思い出です。夢や希望を語り合えた充実の1年間でした。浪人を許してくれた両親には、本当に深く感謝しています。予備校時代は勉強しました。「このままじゃダメだ」と、がむしゃらに勉強しました。

神様が治してくださった!?

ところが、1月の共通テスト受験日も迫ってきた9月下旬。何か熱っぽいなあ、風邪でもひいたかなと思っていたら、3日たっても10日たっても熱が38度くらいから下がりません。内科に行って薬を飲んでも熱が引かず、大学病院にいって内科の教授に診てもらったら、次々と研修医の学生さんにクビをさわられました。教授は「芋掘りだよ、芋掘り!」とおっしゃいました。
病名は「結核性リンパ節炎」という結核菌感染症でした。家庭の医学などによりと「るいれき」ともいい、首のリンパ節に結核菌が宿り、数珠状に腫れて膿を出すとあります。この、「数珠状」というのが、根菜である芋の成長に似ていることから「芋掘り」と教授が表現されたのは、後に歯学生になって、専門書を読んでから知りました。ここで使用した抗生物質の副反応で顔面が真っ赤になってしまったため、抗生物質は使えなくなり、後は手術でクビのリンパ節を全部摘出するしかないという状況になりました。
思い返してみれば、私はツベルクリン反応もずっと擬陽性で、さらに子供の頃、口蓋扁桃の摘出手術も受けていたのです。オペは11/3に全身麻酔下で行うことになりましたが、肺から上のリンパ節組織が全部なくなってしまう私は、「将来大丈夫だろうか?」「こんな状態で大学に行けるのだろうか?」と心配でたまりませんでした。38度以上の発熱はもう40日以上続いていました。
ところが、今でもはっきり憶えていますが、オペを3日後に控えた10/31の朝、目が覚めると薬も飲んでいないのに首の腫れが引いていて、熱も平熱まで下がっていました。自然に治ったのです!治ったのでオペをキャンセルする電話を病院に入れ、「神様が治してくださった!」としか思えない奇跡に感謝して、1ヶ月以上、まったく手につかなかった勉強を、猛然と再開させました。

目標を「歯科大学」に

今も自由の気風があると聞きますが、当時の京都大学は本当にオープンな雰囲気で、予備校の授業の後、私は京大生でもないのに毎日にように京大キャンパスへ通い、京大西部食堂でご飯を食べ、京大図書館で勉強して、家に帰ってまた勉強していました。別段、京大に入学したいとかはなかったのですが、大学の持つ学びの雰囲気がやる気をアップしてくれる効果は絶大でした。
しかし、久しぶりに京都が中心の生活に戻った私は、逆に、大阪の魅力も理解できるようになっていました。というより、大阪に「地元感」すら覚えるようになってきていました。なぜかというと、6年間の大阪学園生活で京都のことがわからなくなってしまっていたのです。ちょうど、その頃だったと思います「大阪の大学に行きたい」と思ったのは。
目標を歯科大学入学に絞ったのもこの頃です。

「歯科医師になりたかった」父の思い

父は小学教員という公務員になりましたが、もともとは歯科医師希望だったそうで、歯科大学(当時は歯科専門学校)も受験して、高校(当時は旧制中学)の担任の先生から「合格してるぞ!」という連絡が来たと言っていました。しかし、大学の合格発表会場に行くと、なぜか自分の番号はなかったそうです。それで、歯科はあきらめて、全然違う大学に入学し、戦中戦後の混乱期に教員の仕事についたのです。
よし、自分が父や祖母のかつての希望した歯科医師になろう!細かい作業は大得意だし、何よりやりがいがある。大学で学んだことが直接、仕事に役立てられる。そして、技術を磨けば患者さんに喜んでもらえるかもしれない!

そうなると、受験する大学として私立の歯科大学は私の家庭では金銭的に絶対に無理で(父にもはっきり言われました)、経済的にも、物理的にも自分の通える国公立の歯科大学は1つしかなく、大阪大学の歯学部を受験することにしました。歯科にこだわる私に向かって父はよく、医学部でもいいんじゃないか、自分の入れそうな医学部受験も考えろとアドバイスしましたが、私は歯科以外を選ぶ気にはなりませんでした。

当時は、今ほどは医学部入試は難しくなく、国公立医学部でも新設の医大などは比較的入りやすかったのです。でも、私はどうしても歯科医師になりたかったので、医学部・医師で妥協はしたくなかったのです。しかし、力及ばず、歯学部受験は失敗。燃え尽きてしまった感じの中で、友人に勧められて受験して合格した名古屋市立大薬学部に進学しました。

名古屋の大学から歯学部を目指していたとき

白紙のような状態で、1年ぶりに名古屋の街を訪れ、今度は初めてのひとり暮らしを始めることになりました。
私は名古屋には知っている人は誰ひとりなく、唯一母の知人が1人いらして、その方にアパートなどをどうしたらいいかお願いして見つけていただいたのは、昨年受験で訪れた名古屋大学のほど近くの「覚王山」というところでした。
紹介して頂いてあれこれいうのも何ですが、私の通う市立大学までは非常に時間がかかり、名古屋の街の広さを改めて認識させられました。同じ名古屋市内都市部ですが、徒歩と大渋滞のバス2本乗り継いで、片道1時間半くらい瑞穂区の大学までかかりました。名古屋大学までは地下鉄1駅で10分ほどで行ける。これは、恐らく、名古屋大学進学と間違われているような気がすると思ったのですが、まあいいか、と思っていたら、その後、案の定自分の家には帰らず、瑞穂区の友人達の下宿に入り浸ることになりました。

周りが自分よりも優秀に思えて苦悩した日々

名古屋市立大学薬学部の友人たちは自分の想像以上に優秀な人たちでした。特にクラスの約半数を占める女性陣は、名古屋に他の国公立薬大がないため、併願して合格した京都大学や名古屋大学を蹴ってまで、市大薬学部に入学してきた人も珍しくありませんでした。男性陣は、私以外、ほぼ全員が東大か京大か国公立医学部の志願者で、入学直後の頃はほぼ全員がそれらの学校の再受験を計画していました。
名古屋での学園生活は夢のように楽しく、先輩や友人もとても親切で活動的で、みんなと一緒にいたい!この学校にずっといたい!という気持ちが次第に大きくなっていきました。きっと、他の、再受験志望の友人たちも同じだったと思います。「俺はもう再受験やめる」「薬学部でいく!」と、次々とこの薬科の世界で生きていく決断をしていく友人を見て、私はある意味うらやましかったです。
「自分には自信がない」
自分が進んで選んだ道ではないかもしれないが、すぐに状況判断してこの世界で生きていく決断をする優秀でたくましい友人たちほど、自分はこの世界で活躍できる自信がどうしても持てなかったのです。薬学の世界は素晴らしくやりがいもあるが、競争も激しい世界です。だからこそ、中途半端な動機と能力しかない自分が、この世界で成果を出せるだろうか?と思い悩んでいました。

「自分には歯科しか考えられない」

薬学部同級生の中で唯一、歯科大に落ちてここに入学した私は、悩みながらももう一度歯科大を受験することにしました。再受験を認めてくれた両親には、本当に感謝しています。
私は、京大でも東大でもなく、薬学部でも医学部でもなく、「歯学部」に行きたい。
どこの歯科大を受験するかは本当に悩みました。1年間のブランクで学力的にも大丈夫か?また別の街で大丈夫か?(ちなみに、京大にも東大にも歯学部はありませんので、京大や東大を卒業しても歯科医師にはなれません。どんないい大学でも薬学部や医学部を卒業しても、歯科医師にはなれません。歯科医師になるためには、歯学部がある大学の、その歯学部にまず合格し卒業し、さらに国家試験に合格しないと歯科医師にはなれません。)
しかし、なぜか不安はあまり感じていなかったのを覚えています。また一から別のところの大学に入学しても、知らない街・初めての所でも自分から歩み寄れば必ず友人に恵まれる、そしてその学校その街のことが好きになれる!と、いう自信がついてきていたのです。知らない遠くへ行ってみたいという、冒険心までわいてきました。
最終的に北海道と九州で悩みましたが、一度も訪れたことのない九州・鹿児島大学歯学部を受験することにしました。
合格発表は当時、電報が自宅に届くシステムで、受験が終わり、名古屋から京都の自宅に帰ってきた私に、電報を先に受け取っていた父が玄関で「歯学部合格おめでとう!」と、言ってくれたのを今も忘れられません。ああ、やっと歯科大学に合格できたんだ、と実感しました。

歯学部時代

様々な仕事・アルバイトを経験

ようやく歯科大学に入学し、鹿児島での学生生活が始まりました。6年間の大学生活の最初の2年間はとくに、ひたすら生活費稼ぎの日々でした。
アルバイトは高校入学前からも、いろいろとさせていただきました。初めて働いて他人様から報酬をいただいたのは、中2の終わり中3になる春休みに、お知り合いの小学生の家庭教師を4-5日させて頂いたことでした。わずかですがお給料をもらって、すごく嬉しかったのを覚えています。
その後、高1の春休みに動物園内の遊園地のミニSLの運転手から始まって、交通量調査、マクドナルド、夜鳴きラーメンの屋台の手伝い、デパートのイベント準備、旅館の配膳とふとんの上げ下げ、ゴルフのキャディ、デパチカの鮮魚売り場、スーパーのさつま揚げ販売員、スナックの店員、ナイトクラブのボーイ、カフェバーのバーテン、再びマクドナルド、小学生の家庭教師数名、中学生の家庭教師数名、高校生の家庭教師数名、大型金庫の設置の助手、古いエアコンの撤去の仕事、お米屋さんで精米と配達、様々なアルバイトを経験させていただきました。

楽しくて、やりがいがあって、お給料もいい「別の道」もある・・・でも自分は歯科医になるんだ

中でもゴルフのキャディは17歳から19歳くらいにかけて、友人に紹介されたゴルフクラブに行き始め、とても熱中しました。
最初の4ラウンド程を先輩キャディと一緒についてまわって、5ラウンド目くらいから独りでお客さんに付いてまわるのですが、何せゴルフなんて始めてで、「パー」の意味も知らないところからのスタートだったので、専門用語を覚えるのも大変で、最初は非常に苦労しました。
ボギー、ダボ、バーディ、イーグルなどに始まり、ドライバー、スプーン、バッフィー、クリーク、アイアン、ピッチング、サンドウェッジ、パター、フェアウェー、ラフ、スライス、フック、ダフる、てんぷら、トップ、ドラコン、ミアピン、月例、ハンデ、ロスト、OB、2ペナ、チョンボ、にぎる?ナイショー!ナイスリカバリー!などなど。 ゼロから必死で覚えました。

朝4時くらいに起きて、地下鉄とJRと送迎バスを乗り継いで滋賀県にある京阪ロイヤルゴルフクラブまで行き、7時くらいからスタートして、1日行くと大体ワンハーフまわっていました。地元キャディのお姉さん方は、プロを目指す人も多く、大体2R/日まわられていました。
キャディお姉さんは、付くお客さんもうまい人が多いので、どんどん追い抜いてハーフを1時間ちょいくらいでまわってしまうのです。ハーフで2-3時間かかってへとへとの自分には信じられないようなスピード・体力でした。でも、早く仕事が上がった夕方にはキャディ仲間と、休憩室に転がっているロストボールと5番アイアンとかを適当に持ち出し、クラブハウス近くのホールを無料でまわって遊んでいました。夜で真っ暗になる直前の楽しみでした。
マネージャーも全パーティがスタートした後は自由にまわっていいよ、と許してくれていたのです。この仕事はとても充実していて楽しくて、2年ほどで100ラウンド以上まわったと思います。コースに慣れてくると、18歳の私を、お客さんは一人前の大人として扱って下さり、コースのアドバイスを私に尋ね、参考にして喜んで頂ける。例えば、「ここは打ち下ろしですが、グリーンの向こうは登り坂なので思い切って狙ってもらって大丈夫です」とか。そしてほぼ全員のお客さんが現金や缶ジュースのチップも下さいました。
カートに溜まった缶ジュースは、後でクラブハウスの売店にもって行くと1本¥100と交換してもらえるシステムで、缶ジュースやチップ代だけで、¥1000-3000/日くらい+バイト代がその日に現金で頂けました。お客さんとのコミュニケーションがとても楽しく、健康的で、やりがいと夢があって、お給料もいい。ずっとゴルフ場で働くのもいいな・・・などと思ったこともありましたが、いや、自分は歯科大へ行って歯科医になるんだ、と帰りの送迎バスの中で気持ちを固めていました。

活気と規律があり、しっかりした職場感があり、プロ意識が溢れるバイト先で

もうひとつ熱中したのは、デパートの鮮魚売り場でした。この仕事は、鹿児島大学に進学した後、京都の実家へ春休みや夏休みで帰省した時に、高島屋の地下の塩干物の魚屋の売り子の仕事を友人に紹介されて始めました。
都合2年ほど春・夏の休みになると毎日、百貨店に行くことになりました。当時の鹿児島大学は東京大学と並んで、もっとも長期休暇の多い大学といわれていました。本当に休みが多く、夏休みは7/10-9/10まで毎年2ヶ月、春も1ヶ月くらいありました。
それで、学校も休みになるので長期に実家や観光地などに移動してみな仕事・バイトなどをしていたのです。本職の家業の手伝いに帰る人もいました。沖縄や南西諸島の海の家などに、泊まりこみで行く友人なども多くいました。私の行ったデパートはなんといっても活気と規律があり、社員さんもパートもみな、しっかりした職場感があり、プロ意識が溢れていました。
忙しい時とヒマな時のメリハリがあるため、1日の流れが理解できてくると自分たちのリズムに乗って仕事ができ、心地よい達成感が得られるのです。朝、洋服や化粧品売り場のお兄さんお姉さんたちと並んで職員証を見せてデパート中に入り、それぞれのコスチュームに着替えると始まりです。私は魚屋の前掛けにゴム長靴です。
まずは、都市高速の渋滞情報のラジオチェックです。大阪の市場から毎朝京都まで阪神高速と名神高速で魚を運んで、開店時間10:00までに陳列しないといけないので、事故や渋滞があると商品が間に合わなくなってしまうのです。
間に合わない時は、巨大冷凍庫にある在庫から、代わりの商品を大急ぎで準備しないといけません。微妙な時には、トラックが到着する場所にスタンバって、到着と同時に猛ダッシュで地下まで運んで準備します。そして、どんなにバタバタしていても、10時の開店のアナウンスが流れれば、フロアスタッフ全員が起立整列して、朝一番どっといらっしゃるお客様を30度のお辞儀でお迎えします。
これは、整列解除の合図がでるまでの約5分間持続します。解除されるとまた猛ダッシュで準備の続きをします。10:20位になると第一陣のお客様が引けて、次は11:30位から昼食の食材目当てのお客様が徐々に増えて13時過ぎまでごった返します。
13:30くらいから16:00までは社員食堂で昼食を食べたり、休憩がある時間帯です。この時間に西京漬けを仕込んだりもします。16:00からは本番です。通路が歩けないほど混雑が始まり、さらに17:00位から値引が始まり、ボルテージは最高潮に達します。18:00を過ぎるとお客様が徐々に引けてきて当時は18:30が閉店です。地下の人は声はみんな、ガラガラになります。

勤務医時代

国家試験は大変でした。が、所詮、学生の資格試験です。社会の荒波に比べると・・・。

鹿児島は歯科の受験者が少ないので、福岡での国家試験受験でした。クラス全員が適当なビジネスホテルに泊まって、3泊4日の国家試験福岡の旅でした。なんとか、国家試験が終わって、クラスメイトと最後の別れを惜しみながら福岡・中洲で全員で打ち上げをした時、何とも言えないみんなとの6年間の一体感を思い、忘れられない夜になりました。

翌4/3の朝、みんなと別れ、鹿児島本線の列車でいったん鹿児島に戻り、翌4/4にはすぐに宮崎日向まで行き、そこから船に乗って就職先の神奈川へ向かいました。国家試験も終わって、やっと勉強からも開放されましたが、6年間住み慣れた鹿児島でゆっくり過ごせた時間は24時間ほどしかありませんでした。

その24時間ですべての荷物を引越し屋さんに預け、別れを惜しむ時間も無く、鹿児島を発ちました。
ひとり、船の中で22時間過ごし、翌4/5午後に川崎・浮島に着きました。鹿児島から電話で、家賃の上限だけ告げて、「後は、なんでもいいから、桜木町から渋谷の間のワンルームを」と頼んでおいた横浜の不動産屋さんに行きカギをもらい、場所も間取りも家賃もその日初めて知る横浜市・日吉のアパートに、まさに転がり込みました。
部屋は、ワンルームでなく1DKでした。家具はもちろん何ひとつなく、カーテンもない部屋で、その日は寝袋にくるまって眠りました。ここはどこなんだろう?

勤務医生活がスタート。手探りながらも頑張って得た経験が大きなものに。

翌朝4/6は、就職先の医療法人の入社式でした。横浜、東京での勤務医生活が始まりました。
最初は、横浜・日吉のクリニックで研修などを行い、夏頃から東京・自由が丘に配属が決まり、本格的な歯科医業務が始まりました。
初めての東京・横浜での勤務や生活、歯科医の仕事はあまりにも刺激に満ちていて、何でも質問でき教えてもらえる先輩歯科医師や歯科技工士さんにも恵まれ、とても充実した社会人生活がスタートできました。

しかし、その後2年目からの自由が丘のクリニックは大変でした。立て続けに先輩の先生が退職や開業してしまい、外出の仕事の多い理事長先生と、私と、卒業したての新人歯科医3人という、ベテラン歯科医がいないクリニックになってしまったのです。

院長でもある理事長先生がいるときはまだいいのですが、歯科医師会等で外出も多く、そうなると、治療ユニット9台、新人含みドクター5名、歯科衛生士4名、歯科技工士2名、受付助手3名、の大所帯をまだ卒業して1年ちょっとの東京のこともよくわからない私が仕切らないといけなくなったのです。しかし、このときの手探りのような経験は自分の中では、非常に大きな勉強をさせていただいたことになったのではないかと思います。

数年前の入れ歯のお礼にわざわざ横浜までいらっしゃった患者さん

その後、法人の転勤命令で横浜・綱島に異動し、綱島2年目の春には院長先生が退職され、平成5年4月からは綱島台クリニックの院長をさせていただくことになりました。とはいえ、まだ、卒後3年しか経験がない私にとって、法律上の管理者という責任は重く、スタッフのマネジネント管理などもあり、「大丈夫なのだろうか?」と色々と悩んでいた頃、ある80歳近い年配の男性が綱島台クリニックに来訪されました。

「ひと言お礼を」と言って、お菓子折りを持って綱島の受付にいらっしゃった男性にお話を伺うと、数年前に自由が丘クリニックで、佐和先生に入れ歯を作ってもらった、それが何年かたった今も非常に具合がよく何でも食べられるのでひと言お礼が言いたい。しかし、横浜に転勤されたと聞いたので、場所を聞いて今日思い切ってここまで参りました、ありがとうございました。

と、おっしゃっていただきました。もちろん私は、このご老人の自由が丘での診療のことはよく憶えていましたが、まさか、こんなに年配の方が、こんなに遠くまで、しかもあんなに前に治療した入れ歯のお礼にわざわざいらして頂けるなんて、私はもう胸がいっぱいになりました。

生涯、歯科医師の仕事に自分のすべてを捧げていこう、と強く思いました。

そして佐和歯科クリニック歯科へ

綱島での院長勤務はとても充実していました。事務やマーケティング・マネジネントなど、診療以外のことは法人本部が主に執り行っており、私は診療に集中できる環境だったのでやりがいが実感できたのです。できれば、生涯こういう環境で仕事を続けたいと思っていました。
しかし、世の中はそうは問屋は卸さず、様々な事情から、後進に道を譲り、法人を去らなければいけなくなりました。仁愛会歯科での6年半、うち綱島での5年間、そのうちとくに3年間の院長勤務は、歯科医としての基礎を築くことが出来たように感じ、私にとってとても大事な財産になりました。
当時の奥村弘一郎理事長はじめ、同僚スタッフのみなさんにはなんと感謝していいのかわかりません。本当に、ありがとうございました。

綱島台クリニックのような医院を一から自分で作りたい

さて、どうしようか?素晴らしい環境で、ずっと勤務院長でいたかった私は開業準備など何もしておらず、退職が決まってから大慌てで色々と模索をはじめました。歯科大の同級生や先輩もぞくぞく開業されており、自分の開業地や開業スタイルを探し求めました。
東京・千葉・埼玉・神奈川はもちろん、大阪・京都・滋賀、鹿児島、愛知県、考えうる限り、見学できる限りどこでも出かけていっては見学し、考察し、先生や業者さんの話を聞き、悩みながら私の出した結論は「自分で一から、綱島台クリニックのような医院を作る」でした。自分にはまずはこのスタイルしかできないし、自分なりに成長していく、この続きが見たい。
そのためには、まずはできるだけ綱島と同じような環境で、同じような考え方で同じような診療スタイルを軌道にのせる。同じような優秀なスタッフを集め、再びまたあのような素晴らしい診療室を、今度は自分の手で作るんだ!というのが私の目標になりました。そしてその続きは自分で創っていくんだ!と、思ったのです。

3人からスタートした「佐和歯科クリニック」

候補地を東京都と神奈川県にしぼり、さらに、検討した結果、溝の口と武蔵小杉のどちらかに決めました。その中で、もともと第一希望地でもあった溝の口で開業できたのは、本当に幸運だったとしか思えません。当時からも、今も、ずっと様々な方々に支えていただき、心から感謝しております。
こうして、平成9年の5/1「佐和歯科クリニック」を開院させて頂くことができました。最初は、私と、仁愛会で以前共に働いたことのある歯科衛生士さん1名と、受付兼助手の妻の3名でのスタートでした。診療ユニットは2台でした。
当初は、月曜-金曜までは昼休みなしで10:00-21:00、土曜日は10:00-17:00という、やや無茶な診療時間でした。夜間はもうひとり、昔、一緒に仕事をさせていただいた歯科衛生士さんが週2回ほどスタッフとして参加してくれましたが、基本的に夜間は妻と2人きりのことも多く、終わって片付けて家に帰ると、大体毎日11時位という生活が続きました。この頃は、私も無茶でしたが、妻には本当に苦労をかけてしまったと思っています。

軌道に乗らなければ、医院に住む!そんな覚悟で毎日頑張っていた

開業は軌道に乗ればうまくいくかもしれないが、軌道に乗る前に医院は潰れてしまうかもしれないと思っていました。 そのため、最初は月に何とか20名の初診の方にご来院いただき、それから少しずつでも患者さんが増えて、何とか6ヶ月持ちこたえれば、やっていけるとふんでいました。11時間勤務でも月20名の初診数に達しなければ、この医院で寝泊りして、24時間体制すら検討していました。

最悪、ここに住めるように控え室に小さなキッチンや、夫婦で布団を敷けるスペースも確保していたのです。ところが、内覧会などもしていないのに、オープンした5月には何と80名もの新患の方にいらしていただき、以後コンスタントに毎月50名以上の新患の方にいらしていただきました。

これは、開業15年以上たった今も多少の変動はあれ、ほとんど変わらず、毎月ほぼ50名以上の新患の方にいらしていただいております。感謝の限りです。しかし開業当時、医院としてうれしい新患数とは裏腹に、経営素人の私の計算は大きくずれており、開業5ヶ月目の9月には運転資金が底をつきかけ、1ヶ月の資金の猶予もない状態に陥りました。

もともと、親からも含めまったく誰からの資金援助も無く、自分のわずかな貯蓄と借り入れだけで開業したので、6か月分準備していたはずの運転資金もぎりぎりだったのです。家賃とスタッフ給与のストックが1か月分しかない状態です。こんなに忙しいのになぜだ。何とか、6ヶ月目にはやや回復し追加融資を受けずにすみましたが、もう少しでも悪い条件が重なれば、佐和歯科は無くなっていたかもしれません。

予想の、あるいは当時の平均の「4倍以上」の来院者の方に、持続的にいらしていただけたので、倒産はなんとか免れました。本当に、「ついてる!」としか言いようがありません。開業初期の頃からずっと通院していただいている方が、今も数多く定期検診等でご来院して頂いております。
開業当初、出来立ての小さな医院の頃から通院していただき、本当にありがとうございます。
あらためて、御礼申し上げます。

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