院長紹介・ごあいさつ
経歴
「治療するだけ」ではなく「一番良よい方法を一緒に見つける」
歯科医院を目指して
こんにちは。アイアイ会佐和歯科クリニック・理事長の佐和義夫です。
誕生~中学・高校時代
【中学受験】京都から大阪へ。はじめての地にカルチャーショック
そんな童話のような子供時代が過ぎ、小学5年生の途中から学習塾に通うことになり、バスに乗ってひとり不安な気持ちで初めて塾に行った時、知らない教室、知らない友達のいる最初の授業は算数のテストでした。算数の問題が中々難しく、結果が返ってきたら何と「0点」でした。
その後も案の定、地元京都の中学受験に失敗した私は、その後、衝撃の中学時代を過ごすことになります。大阪の私立中学への進学です。
「そんな大げさな!」と思われるかもしれませんが、幼馴染の友達すべてと別れ、たったひとりで知らない街の知らない学校に入った時の心細さは今でも覚えています。それも、「大阪」です。街並みも違う、微妙に言葉や文化も違う「大阪」は、12歳の私にとっては衝撃でした。隣りに、こんなにも大きな街があるとは、夢にも思っていなかったのです。そして、大阪の「スピード」「勢い」「笑い」「パワー」「人情」。すべてが高テンションで、最初の頃はとにかく付いて行けず、早く京都に帰りたくてしかたありませんでした。
【中学時代】やがて友達もでき、山歩きや楽器に夢中で・・・
大きな影響を与えた大学受験
受験の帰り道。道草していてであった洗練された大地下街
予備校時代
予定通りというか、浪人することになって、予備校を受験してなんとか京都の「近畿予備校」という予備校に入学できました。
この時のうれしさは、今でもはっきり覚えています。「やっと京都の学校に通える!」(予備校ですが、笑)
私にとっては、小学卒業以来、久しぶりの京都での学園生活です。京都の友人達と地元の学校に通いながら過ごせた、最高の思い出です。夢や希望を語り合えた充実の1年間でした。浪人を許してくれた両親には、本当に深く感謝しています。予備校時代は勉強しました。「このままじゃダメだ」と、がむしゃらに勉強しました。
神様が治してくださった!?
ところが、1月の共通テスト受験日も迫ってきた9月下旬。何か熱っぽいなあ、風邪でもひいたかなと思っていたら、3日たっても10日たっても熱が38度くらいから下がりません。内科に行って薬を飲んでも熱が引かず、大学病院にいって内科の教授に診てもらったら、次々と研修医の学生さんにクビをさわられました。教授は「芋掘りだよ、芋掘り!」とおっしゃいました。
病名は「結核性リンパ節炎」という結核菌感染症でした。家庭の医学などによりと「るいれき」ともいい、首のリンパ節に結核菌が宿り、数珠状に腫れて膿を出すとあります。この、「数珠状」というのが、根菜である芋の成長に似ていることから「芋掘り」と教授が表現されたのは、後に歯学生になって、専門書を読んでから知りました。ここで使用した抗生物質の副反応で顔面が真っ赤になってしまったため、抗生物質は使えなくなり、後は手術でクビのリンパ節を全部摘出するしかないという状況になりました。
思い返してみれば、私はツベルクリン反応もずっと擬陽性で、さらに子供の頃、口蓋扁桃の摘出手術も受けていたのです。オペは11/3に全身麻酔下で行うことになりましたが、肺から上のリンパ節組織が全部なくなってしまう私は、「将来大丈夫だろうか?」「こんな状態で大学に行けるのだろうか?」と心配でたまりませんでした。38度以上の発熱はもう40日以上続いていました。
ところが、今でもはっきり憶えていますが、オペを3日後に控えた10/31の朝、目が覚めると薬も飲んでいないのに首の腫れが引いていて、熱も平熱まで下がっていました。自然に治ったのです!治ったのでオペをキャンセルする電話を病院に入れ、「神様が治してくださった!」としか思えない奇跡に感謝して、1ヶ月以上、まったく手につかなかった勉強を、猛然と再開させました。
目標を「歯科大学」に
「歯科医師になりたかった」父の思い
名古屋の大学から歯学部を目指していたとき
白紙のような状態で、1年ぶりに名古屋の街を訪れ、今度は初めてのひとり暮らしを始めることになりました。
私は名古屋には知っている人は誰ひとりなく、唯一母の知人が1人いらして、その方にアパートなどをどうしたらいいかお願いして見つけていただいたのは、昨年受験で訪れた名古屋大学のほど近くの「覚王山」というところでした。
紹介して頂いてあれこれいうのも何ですが、私の通う市立大学までは非常に時間がかかり、名古屋の街の広さを改めて認識させられました。同じ名古屋市内都市部ですが、徒歩と大渋滞のバス2本乗り継いで、片道1時間半くらい瑞穂区の大学までかかりました。名古屋大学までは地下鉄1駅で10分ほどで行ける。これは、恐らく、名古屋大学進学と間違われているような気がすると思ったのですが、まあいいか、と思っていたら、その後、案の定自分の家には帰らず、瑞穂区の友人達の下宿に入り浸ることになりました。
周りが自分よりも優秀に思えて苦悩した日々
名古屋市立大学薬学部の友人たちは自分の想像以上に優秀な人たちでした。特にクラスの約半数を占める女性陣は、名古屋に他の国公立薬大がないため、併願して合格した京都大学や名古屋大学を蹴ってまで、市大薬学部に入学してきた人も珍しくありませんでした。男性陣は、私以外、ほぼ全員が東大か京大か国公立医学部の志願者で、入学直後の頃はほぼ全員がそれらの学校の再受験を計画していました。
名古屋での学園生活は夢のように楽しく、先輩や友人もとても親切で活動的で、みんなと一緒にいたい!この学校にずっといたい!という気持ちが次第に大きくなっていきました。きっと、他の、再受験志望の友人たちも同じだったと思います。「俺はもう再受験やめる」「薬学部でいく!」と、次々とこの薬科の世界で生きていく決断をしていく友人を見て、私はある意味うらやましかったです。
「自分には自信がない」
自分が進んで選んだ道ではないかもしれないが、すぐに状況判断してこの世界で生きていく決断をする優秀でたくましい友人たちほど、自分はこの世界で活躍できる自信がどうしても持てなかったのです。薬学の世界は素晴らしくやりがいもあるが、競争も激しい世界です。だからこそ、中途半端な動機と能力しかない自分が、この世界で成果を出せるだろうか?と思い悩んでいました。
「自分には歯科しか考えられない」
歯学部時代
様々な仕事・アルバイトを経験
楽しくて、やりがいがあって、お給料もいい「別の道」もある・・・でも自分は歯科医になるんだ
活気と規律があり、しっかりした職場感があり、プロ意識が溢れるバイト先で
もうひとつ熱中したのは、デパートの鮮魚売り場でした。この仕事は、鹿児島大学に進学した後、京都の実家へ春休みや夏休みで帰省した時に、高島屋の地下の塩干物の魚屋の売り子の仕事を友人に紹介されて始めました。
都合2年ほど春・夏の休みになると毎日、百貨店に行くことになりました。当時の鹿児島大学は東京大学と並んで、もっとも長期休暇の多い大学といわれていました。本当に休みが多く、夏休みは7/10-9/10まで毎年2ヶ月、春も1ヶ月くらいありました。
それで、学校も休みになるので長期に実家や観光地などに移動してみな仕事・バイトなどをしていたのです。本職の家業の手伝いに帰る人もいました。沖縄や南西諸島の海の家などに、泊まりこみで行く友人なども多くいました。私の行ったデパートはなんといっても活気と規律があり、社員さんもパートもみな、しっかりした職場感があり、プロ意識が溢れていました。
忙しい時とヒマな時のメリハリがあるため、1日の流れが理解できてくると自分たちのリズムに乗って仕事ができ、心地よい達成感が得られるのです。朝、洋服や化粧品売り場のお兄さんお姉さんたちと並んで職員証を見せてデパート中に入り、それぞれのコスチュームに着替えると始まりです。私は魚屋の前掛けにゴム長靴です。
まずは、都市高速の渋滞情報のラジオチェックです。大阪の市場から毎朝京都まで阪神高速と名神高速で魚を運んで、開店時間10:00までに陳列しないといけないので、事故や渋滞があると商品が間に合わなくなってしまうのです。
間に合わない時は、巨大冷凍庫にある在庫から、代わりの商品を大急ぎで準備しないといけません。微妙な時には、トラックが到着する場所にスタンバって、到着と同時に猛ダッシュで地下まで運んで準備します。そして、どんなにバタバタしていても、10時の開店のアナウンスが流れれば、フロアスタッフ全員が起立整列して、朝一番どっといらっしゃるお客様を30度のお辞儀でお迎えします。
これは、整列解除の合図がでるまでの約5分間持続します。解除されるとまた猛ダッシュで準備の続きをします。10:20位になると第一陣のお客様が引けて、次は11:30位から昼食の食材目当てのお客様が徐々に増えて13時過ぎまでごった返します。
13:30くらいから16:00までは社員食堂で昼食を食べたり、休憩がある時間帯です。この時間に西京漬けを仕込んだりもします。16:00からは本番です。通路が歩けないほど混雑が始まり、さらに17:00位から値引が始まり、ボルテージは最高潮に達します。18:00を過ぎるとお客様が徐々に引けてきて当時は18:30が閉店です。地下の人は声はみんな、ガラガラになります。
勤務医時代
国家試験は大変でした。が、所詮、学生の資格試験です。社会の荒波に比べると・・・。
勤務医生活がスタート。手探りながらも頑張って得た経験が大きなものに。
翌朝4/6は、就職先の医療法人の入社式でした。横浜、東京での勤務医生活が始まりました。
最初は、横浜・日吉のクリニックで研修などを行い、夏頃から東京・自由が丘に配属が決まり、本格的な歯科医業務が始まりました。
初めての東京・横浜での勤務や生活、歯科医の仕事はあまりにも刺激に満ちていて、何でも質問でき教えてもらえる先輩歯科医師や歯科技工士さんにも恵まれ、とても充実した社会人生活がスタートできました。
しかし、その後2年目からの自由が丘のクリニックは大変でした。立て続けに先輩の先生が退職や開業してしまい、外出の仕事の多い理事長先生と、私と、卒業したての新人歯科医3人という、ベテラン歯科医がいないクリニックになってしまったのです。
院長でもある理事長先生がいるときはまだいいのですが、歯科医師会等で外出も多く、そうなると、治療ユニット9台、新人含みドクター5名、歯科衛生士4名、歯科技工士2名、受付助手3名、の大所帯をまだ卒業して1年ちょっとの東京のこともよくわからない私が仕切らないといけなくなったのです。しかし、このときの手探りのような経験は自分の中では、非常に大きな勉強をさせていただいたことになったのではないかと思います。
数年前の入れ歯のお礼にわざわざ横浜までいらっしゃった患者さん
その後、法人の転勤命令で横浜・綱島に異動し、綱島2年目の春には院長先生が退職され、平成5年4月からは綱島台クリニックの院長をさせていただくことになりました。とはいえ、まだ、卒後3年しか経験がない私にとって、法律上の管理者という責任は重く、スタッフのマネジネント管理などもあり、「大丈夫なのだろうか?」と色々と悩んでいた頃、ある80歳近い年配の男性が綱島台クリニックに来訪されました。
「ひと言お礼を」と言って、お菓子折りを持って綱島の受付にいらっしゃった男性にお話を伺うと、数年前に自由が丘クリニックで、佐和先生に入れ歯を作ってもらった、それが何年かたった今も非常に具合がよく何でも食べられるのでひと言お礼が言いたい。しかし、横浜に転勤されたと聞いたので、場所を聞いて今日思い切ってここまで参りました、ありがとうございました。
と、おっしゃっていただきました。もちろん私は、このご老人の自由が丘での診療のことはよく憶えていましたが、まさか、こんなに年配の方が、こんなに遠くまで、しかもあんなに前に治療した入れ歯のお礼にわざわざいらして頂けるなんて、私はもう胸がいっぱいになりました。
生涯、歯科医師の仕事に自分のすべてを捧げていこう、と強く思いました。
そして佐和歯科クリニック歯科へ
綱島での院長勤務はとても充実していました。事務やマーケティング・マネジネントなど、診療以外のことは法人本部が主に執り行っており、私は診療に集中できる環境だったのでやりがいが実感できたのです。できれば、生涯こういう環境で仕事を続けたいと思っていました。
しかし、世の中はそうは問屋は卸さず、様々な事情から、後進に道を譲り、法人を去らなければいけなくなりました。仁愛会歯科での6年半、うち綱島での5年間、そのうちとくに3年間の院長勤務は、歯科医としての基礎を築くことが出来たように感じ、私にとってとても大事な財産になりました。
当時の奥村弘一郎理事長はじめ、同僚スタッフのみなさんにはなんと感謝していいのかわかりません。本当に、ありがとうございました。
綱島台クリニックのような医院を一から自分で作りたい
さて、どうしようか?素晴らしい環境で、ずっと勤務院長でいたかった私は開業準備など何もしておらず、退職が決まってから大慌てで色々と模索をはじめました。歯科大の同級生や先輩もぞくぞく開業されており、自分の開業地や開業スタイルを探し求めました。
東京・千葉・埼玉・神奈川はもちろん、大阪・京都・滋賀、鹿児島、愛知県、考えうる限り、見学できる限りどこでも出かけていっては見学し、考察し、先生や業者さんの話を聞き、悩みながら私の出した結論は「自分で一から、綱島台クリニックのような医院を作る」でした。自分にはまずはこのスタイルしかできないし、自分なりに成長していく、この続きが見たい。
そのためには、まずはできるだけ綱島と同じような環境で、同じような考え方で同じような診療スタイルを軌道にのせる。同じような優秀なスタッフを集め、再びまたあのような素晴らしい診療室を、今度は自分の手で作るんだ!というのが私の目標になりました。そしてその続きは自分で創っていくんだ!と、思ったのです。
3人からスタートした「佐和歯科クリニック」
候補地を東京都と神奈川県にしぼり、さらに、検討した結果、溝の口と武蔵小杉のどちらかに決めました。その中で、もともと第一希望地でもあった溝の口で開業できたのは、本当に幸運だったとしか思えません。当時からも、今も、ずっと様々な方々に支えていただき、心から感謝しております。
こうして、平成9年の5/1「佐和歯科クリニック」を開院させて頂くことができました。最初は、私と、仁愛会で以前共に働いたことのある歯科衛生士さん1名と、受付兼助手の妻の3名でのスタートでした。診療ユニットは2台でした。
当初は、月曜-金曜までは昼休みなしで10:00-21:00、土曜日は10:00-17:00という、やや無茶な診療時間でした。夜間はもうひとり、昔、一緒に仕事をさせていただいた歯科衛生士さんが週2回ほどスタッフとして参加してくれましたが、基本的に夜間は妻と2人きりのことも多く、終わって片付けて家に帰ると、大体毎日11時位という生活が続きました。この頃は、私も無茶でしたが、妻には本当に苦労をかけてしまったと思っています。
軌道に乗らなければ、医院に住む!そんな覚悟で毎日頑張っていた
もともと、親からも含めまったく誰からの資金援助も無く、自分のわずかな貯蓄と借り入れだけで開業したので、6か月分準備していたはずの運転資金もぎりぎりだったのです。家賃とスタッフ給与のストックが1か月分しかない状態です。こんなに忙しいのになぜだ。何とか、6ヶ月目にはやや回復し追加融資を受けずにすみましたが、もう少しでも悪い条件が重なれば、佐和歯科は無くなっていたかもしれません。
予想の、あるいは当時の平均の「4倍以上」の来院者の方に、持続的にいらしていただけたので、倒産はなんとか免れました。本当に、「ついてる!」としか言いようがありません。開業初期の頃からずっと通院していただいている方が、今も数多く定期検診等でご来院して頂いております。
開業当初、出来立ての小さな医院の頃から通院していただき、本当にありがとうございます。
あらためて、御礼申し上げます。